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福岡地方裁判所小倉支部 昭和46年(ワ)603号 判決

原告 下川登美慧

右訴訟代理人弁護士 塘岡琢麿

右同 安部千春

右同 三浦久

右同 坂元洋太郎

右同 吉野高幸

右同 河野善一郎

右同 城戸照美

被告 新日本製鉄化学工業株式会社

右代表者代表取締役 小室恒夫

右訴訟代理人弁護士 筒井義彦

右同 松尾光幸

主文

原告が被告に対し雇用契約上の地位を有することを確認する。

被告は原告に対し三三四万二、〇〇〇円及び昭和五三年一一月二一日以降一日につき金一、〇〇〇円の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告の負担とする。

本判決の第二項は仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告

主文第一、二項同旨の判決ならびに金員支払部分につき仮執行の宣言

二  被告

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

との判決

第二当事者の主張

一  請求の原因

1  原告は昭和三七年四月一日被告会社に入社し、昭和四二年一二月五日までは被告会社戸畑製造所総務課機械計算係でキーパンチャーとして、同月六日からは総務課厚生係で一般事務員として勤務していたところ、病気のため昭和四三年一一月二日から欠勤をはじめ、現在に至るまで治療に専念している。

被告はコークスの製造及び販売等を業としている会社であるが、原告の疾病を私傷病として取扱い、就業規則五〇条一項一号の「業務外の傷病による欠勤が引き続き六か月を越えたとき」には休職とすることがある旨の規定により欠勤の日から六ヶ月経過した昭和四四年五月二日原告に対し休職を命じ、更に昭和四五年五月一日就業規則五〇条二項に定める休職期間一年が満了したとして、同条四項の「休職期間が満了したときは、退職となる。」との規定により同日以降原告を退職したものとして取扱っている。

2  しかし、原告の疾病は職業性頸肩腕症候群であって、業務に起因するものであるから、被告が原告を退職扱いとしたのは、就業規則の適用を誤っており、無効である。

《以下事実省略》

理由

一  請求原因1の事実及び原告主張の就業規則の存在は当事者間に争いがない。

二1  原告は、原告の疾病は職業性頸肩腕症候群であって、業務に起因するものであるから、被告が就業規則五〇条二項四項を適用して、原告を退職扱いとしたのは、就業規則の適用を誤まっており無効であると主張するので、この点について判断する。

《証拠省略》によると、次の事実を認めることができる。

(一)  原告は高等学校を卒業するとともに昭和三七年四月被告会社に入社したのであるが(この事実は当事者間に争いがない。)、小学校から高等学校まで一二年間の学校生活の間特段の病気にかかったことはなく、欠席もほとんどないというほど健康であった。

原告は入社後被告会社戸畑製造所において新設の機械計算係にキーパンチャーとして配属され、六ヶ月の訓練期間を経て、昭和三七年一〇月から実務につき、穿孔機と検孔機とを交互に打鍵して給料計算のための穿孔及び検孔作業に従事し、時々、ナショナル会計機を操作した(以上の事実は当事者間に争いがない。)。この仕事に従事していて時折眼の奥に鋭い痛みを感じることがあったが、一日の平均実働時間も二、三時間でパンチ量も非常に少なくキーパンチャー一人につき一日一、六〇〇ないし二、二〇〇程度であったから、仕事は楽で他に身体に異常を感じることはなかった。

(二)  昭和三八年五月に戸畑製造所に電子計算機が設置され、それに伴いパンチ量も増加し(このことは当事者間に争いがない。)、同年六月から昭和三九年一月までのキーパンチャー一人当たりの一日の平均タッチ数は二、四〇〇ないし一万四、六〇〇で平均すると六、五〇〇程度になった。また電子計算機が設置されたことに伴い、その性能保全のため夏期には特別の冷房がされて、室温が摂氏二〇度前後に保たれ、そのためそこで仕事をする原告にはひどく寒く感じられた。また、室内では穿孔機等の打鍵の音や電子計算機の音がうるさく、昭和三八年五月一日の測定では室内の騒音は七五ないし七九フォンあった。原告はこの五月ころ手指の痛み、頭痛を感じるようになり、八月の冷房の時期になると両手指に針で刺すような痛みを感じ、冷房した部屋の中では左半身の痛だるさがあった。

(三)  昭和三九年三月以降給料計算以外に固定資産業務、資材管理業務、請負保全業務、販売管理業務が順次機械化され、それとともに原告らキーパンチャーの仕事量も増加していき(このことは当事者間に争いがない。)、一ヶ月の平均タッチ数は昭和三九年三月から七月までは六、六〇〇ないし一万三、〇〇〇程度、同年八月から昭和四〇年九月までは一万六、〇〇〇ないし三万八、〇〇〇程度になった。このため昭和三九年八月以降仕事が集中する月末から翌月の初旬にかけての忙しい時期には休憩をとるひまもない状態となり、残業時間も昭和三九年七月ころまでは毎月二ないし五時間程度で、それも書類待ちの残業であったのが、同年八月以降になると毎月一〇時間をこえることがほとんどとなった。

昭和三九年三月ころには肩のつけ根の痛だるい感じがあり、指先だけであった痛みが拡がっていき両腕、腰の鈍痛が生じ、時折り身体中を電撃様の痛みが走ることがあった。このころ八幡製鉄病院の整形外科に受診したが異常なしとのことであった。同年の冷房の時期になると冷房室では手指がうずき、左肩つけ根の痛みのため腕が上がらず、足先がチクチクと痛み、息苦しいような背中の鈍痛があったし、勤務中ばかりでなく、自宅で扇風機にかかったか、電車に乗って窓から吹きこむ風に当たると手指、腕、肩が痛んだし、そのうえ、食欲不振、舌のあれ、頭痛等の内科的症状も現われた。このため、諸富整形外科に診察に行き左肩付け根に局所注射をうつ治療を受けたが効果はなく、内科的症状については済生会病院で診察を受けたところ疲労からきた症状であるとの診断であった。右の各症状はその後も好転することなく続き、そればかりでなく特に昭和三九年一〇月ころは食欲不振、嘔吐が著しく、従前四七キログラムあった体重が三七キログラムに減少したし、昭和四〇年三月ころは疲れたときに顔に白い斑点ができ、同年六月ころは食欲不振、嘔吐が、同年九月ころは食欲不振、立くらみ、生理不順があった。昭和三九年九、一〇月ころに通町病院で牽引療法による治療を受けたほか、八幡製鉄病院の内科等でも受診したが、発症の原因についてはっきりしたことは不明のままであった。

(四)  昭和四〇年一一月ごろキーパンチャー一名が他へ配転となり、昭和四一年四月から五月にかけてもキーパンチャー二名が退職し、一名が配転となり(右のような転退職の事実があったことは当事者間に争いがない。)、その都度欠員の補充はされたものの特にそのうち三名は新人であったこと等から古参である原告らの仕事の負担は大きくなり、右期間中における原告の残業時間は各月とも一二時間をこえ、昭和四一年四月には二九時間、五月には三二時間をこえたし、仕事が集中する月末及び月の前半には原告の一日のタッチ数は四万をかなり超えることがあった。

前記のような各種症状は悪化するばかりで、昭和四一年四月ころには頭痛がし、三七度五分から三八度の微熱が出るようになり、痛みのため左足をひきずって歩く状態になった。更に五月ころには、両手指のうずき、左肩つけ根の激しい痛み、指先から肘にかけての電撃様の痛み、肘の熱感があり、朝目が覚めにくく、目覚めても起き上がるのに一苦労する、ハンドバックを同じ手で五分間も下げていられないという状態になった。そこで八幡病院、済生会病院の各整形外科で受診したところ、職業病であるとの診断を受けたので、会社の上司に残業を免除してもらったが、症状が改善されなかったため、昭和四一年六月七日から欠勤をすることとなった(同日から欠勤したことは当事者間に争いがない。)。

(五)  欠勤後当初は通町病院で牽引療法、投薬の、同年一一月初旬から昭和四二年二月までは千葉県の藤川整形外科で牽引療法、カイロプラクティック療法による治療を受け、少し軽快に向かったが、同病院退院後二ヶ月位して症状は再び悪化し、同年六月から東京都の神谷病院に入院して内科的治療を受けるとともに、北池袋診療所でマッサージ療法、鉄砲州診療所において鍼灸治療を受けたところ、症状は順調に軽快しつづけていたけれども、同年の九月に入って、気温の低下が始まってからは再び症状がやや悪化し、筋力水準も低下する状態になっていた。このような状態であったから各医師からはあと一年位このまま治療を続けたほうがよい旨助言があった。しかし、被告会社は原告の疾病を業務上のものと認めておらず、そのため就業規則五〇条により原告は昭和四二年一二月六日をもって休職期間が満了し、退職として取扱われることとなっており、原告の申出にもかかわらず、被告会社では原告の休職期間を延長することはできないということであったので、原告は退職となる事態を避けるためやむなく同年一〇月前記治療を中断して帰宅し近所で陰陽療法を受け、同年一二月六日復職した(復職の事実は当事者間に争いがない。)ころには病状は相当改善されていた。

(六)  復職後原告は総務部総務課厚生係に配転された。厚生係では当初はアフターケアの意味で特別の仕事は与えられず(以上の事実は当事者間に争いがない。)、時々札勘定とか貯金台帳の整理等の貯金業務、定期券申込書の記入の手伝をする程度であったが、勤務時間は通常どおりで、治療、アフターケアのためこれを短縮するなどの配慮はなかった。このため、原告は出勤して机についているだけで精一杯の状態であって、復職直後から椅子に腰かけていると首筋から背中、腰にかけて板のように硬くこわばってうずきはじめるという症状が出始め、貯金台帳カードの抜き出しをするのに体を斜め下によじるので首や腰が痛く苦痛に感じた。

復職後二ヶ月位してから原告は生命保険業務を担当させられ、被告会社各社員の生命保険料支払明細書を各生命保険会社別に作成して、郵送する仕事に従事したほか、定期券業務、社内貯金業務の補助に従事し、更に昭和四三年六月から寮、社宅等の修理費用の支払いのための支払要求書の作成、同年七月からは勤務カードの整理の各業務も担当することになった(原告が右のような業務に従事したことは当事者間に争いがない。)。これらの業務は具体的にはそろばんを入れたり、札勘定をしたり、ボールペンで複写をしたり、帳簿の出し入れをする等の手指を使う作業が含まれていたが、原告は定員外の配置であって、密度の高い労働ではなかった。

しかし原告は、手指、腕、肩、腰等の痛みを感じ、昭和四三年夏冷房の時期になると症状は悪化し、特に左半身の痛み、しびれがひどく、肩胛骨周辺のえぐり出したようなうずき、左足のしびれ、頭痛があり、仕事で疲れたときは、三七度五分から三七度八分の微熱がでるようになった。

そのため原告は同年八月から北九州市にある天六診療所に通院して、鍼、マッサージの治療を受けた。右症状は悪化するばかりで、同年一〇月ころになると最も症状が重かった昭和四一年四、五月ころの症状と同じ状態にぶりかえした。そして一〇月三〇日、一一月一日の二日間定期券業務の補助としてそろばん入れを一日中やったところ、手や左肩の付け根がひどく痛み、二日目の夕方からは左腕があがらなくなり、夜中には腕がずきずき痛むという状態になったため、一一月二日から再び欠勤するに至った。

(七)  右欠勤を始めた当時の原告の症状は第一回目の欠勤をはじめた昭和四一年六月当時と同様の症状であって、昭和四三年暮から昭和四四年二月にかけて一番症状が重くなったが、業務から離れ、鍼灸、マッサージの治療を続けているうち同年四月ころから症状は軽快に向い、昭和四五年から胎盤埋没療法を受けるようになってから症状は目立って回復していったが、二回目の休職期間が満了する昭和四五年五月一日の段階では未だ復職できる状態には達していなかった。

以上の事実が認められる。

もっとも《証拠省略》によると、原告には昭和三七年一二月から昭和四一年四月にかけて被告主張二の2の(一)記載の(1)ないし(20)の私生活上の行動があったことが認められるけれども、原告の症状が現われたのは昭和三八年五月ころでそれ以後次第に悪化しているのであるが、昭和四一年六月欠勤に入るまでは通常の勤務についてキーパンチ業務に携わっていたのであり、原告本人尋問の結果によると昭和四〇年秋ころより前の症状は痛いと思っても我慢ができて、仕事もできるし、日常生活にもさして支障がなく、自分の健康にもまだ自信を持っていたし、むしろキーパンチ業務を離れて屋外で体を動かすことは健康上いいことに感じられたこと、昭和四〇年一一月の平戸旅行では目的地に着いてすぐ気分が悪くなり、昭和四一年四月の天ヶ瀬旅行でも気分が悪くなり、その日のうちに帰宅したことが認められ、これらの事実に照らしてみると、右認定の原告の私生活上の行動も必ずしも原告の症状の推移、程度についての前記認定を妨げるものではない。

2  ところで、《証拠省略》によると、昭和三〇年ころからキーパンチャー等の事務機械作業者に職業病として腱鞘炎等の障害が発生することが知られるようになったが、その後事務の機械化・単純化・合理化が進むにつれて、この種の疾患にかかる者が増加するとともに右事務機械作業者の他にボールペンによる複写、札勘定、カード整理等に従事する一般事務従事者や保母等の職種にも職業病として、この種の障害が発生するようになり、症状も手指等の局所にみられる腱鞘炎だけでなく、器質的障害を伴うことなく頸肩腕等の痛み、半身のだるさ、しびれの他胃腸障害等の内科的症状を訴えるものもあって、この種の疾患は全身的な疾患であるとの認識が一般的になっていき、疾病名も「頸肩腕症候群」と呼ぶようになったこと、右疾病の病理機序、診断、治療方法は未だ十分に解明されるに至っていないが、キーパンチャーの場合キーパンチ業務に従事することにより、手指、手、腕、頸、肩等の筋肉の持続的緊張による筋肉疲労が生じ、また、仕事の正確性を要求され、責任を持たされることからくる精神的な緊張により筋肉の疲労が強められる外自律神経の失調も生じ、前記のような特有の症状がでるのであり、また、冷房や騒音等の作業環境も右症状の発生、悪化に影響を与えるものと一般に考えられるようになっていること、業務に起因する頸肩腕症候群の場合、患者が業務から離れることによって通常症状は軽快していくが、しかし、それも一進一退を繰返しながら回復していくのが通例であり、軽快したと判断して復職してもたちまち症状が悪化する例が多く、そのため復職する場合には手先を使う業務にはつけないようにし、治療を続けつつしかも勤務時間も当初は短時間とし、次第に通常にしていくという具合に段階的に職場に復帰するようにするのが望ましいと考えられていること、因に労働省労働基準局長昭和四八年一一月五日付通達(基発第五九三号)「頭頸部外傷症候群等の労働災害者に対する特別対策の実施について」においては右のような段階的就労の考え方が盛込まれていることが認められる。

しかして、頸肩腕症候群とは右のとおり各種症状を総称したものにすぎず、右症状を呈する原因疾患としてはキーパンチ業務等に従事したことから生じる疾患以外にも数多く考えられるのであって、従業員の頸肩腕症候群が業務に起因して生じたものといえるためには、厳密には他の原因疾患によるものではないかも検討さるべきであろうが、業務に起因して生ずる頸腕症候群の病理機序もある程度明らかにされているのであるから、特に別の原因疾患によることが明らかでない限り症状の部位、程度、従業員の従事した作業内容及び作業環境、これと症状の推移との相関関係、作業従事期間等からみて当該疾患の症状発生が医学常識上業務に起因して生じたものとして納得し得るものであり、かつ医学上療養を必要とする場合には、これを業務上のものとして取扱うべきものと解するのが相当である。

3(一)  原告の従事した作業内容及び作業環境と原告の症状の推移は前認定のとおりであって、まず作業内容についてみると、原告は被告会社に昭和三七年四月入社し、昭和四一年六月第一回目の欠勤に入るまで約四年キーパンチ業務に従事したのであるが、昭和三八年五月電子計算機が設置されて以降事務の機械化が進み、それとともにキーパンチ業務は著しく増大していったこと、特に昭和四〇年秋以降のキーパンチャーの業務量の増加は著しく、昭和四〇年末から昭和四一年初めにかけてキーパンチャーの転退職が相次いだという事情も重なって、原告の業務量は忙しい時期には一日のタッチ数が四万をかなりこえ、休憩もとれないことが多く、各月の残業時間も一二時間をこえ、三二時間に達したこともあるという状態になったこと、キーパンチャーの健康維持を目的とする労働省労働基準局長昭和三九年九月二二日付通達(基発第一一〇六号)「キーパンチャーの作業管理基準」が、穿孔作業時間は一日三〇〇分以内、一連続穿孔作業時間は六〇分をこえず、作業間に一〇ないし一五分の休憩を与え、一日のタッチ数も四万タッチをこえないようにすることと定めていることに照らしてみると、当時の原告の作業量はかなり大きなものであったといえるし、そのうえ原告はキーパンチャーとして最古参となっていたからその責任も大きかったこと、復職後はキーパンチ業務からははずされて過重ではない一般事務に従事したが、札勘定、そろばん入れ、カードの出入れ等手指を使う業務があったことが認められ、また、原告の症状及び症状と作業内容との関係については、原告はキーパンチ業務に従事しているうちに手指、腕、肩、腰の痛み、左半身のだるさしびれ等の外、食欲不振、嘔吐、頭痛等の内科的症状がでてきたのであるが、まず、昭和三八年五月ころに症状が出始め、その後キーパンチ作業の量が増加するとともに症状は悪化し、冷房の時期には特に悪化する傾向にあったこと、昭和四〇年秋以降キーパンチャーの業務量の著しい増加及び他のキーパンチャーの転退職に伴い原告の仕事及び責任の負担が増加した時期に原告の症状も著しく悪化し、原告は欠勤するに至ったが、業務から一年六月程離れて治療をしているうちに症状は全体として軽快に向っていたこと、しかし、復職後再び欠勤前と同様な症状が発生しはじめ、冷房の時期を境にしてそれが著しく悪化し、一回目の欠勤直前の最も症状が悪化したときとほぼ同様の状態となったこと、しかし二回目の欠勤後六ヶ月位してから症状は再び軽快に向ったことが認められる。

(二)  また、《証拠省略》によると次の事実を認めることができる。

(1) 昭和四三年八月六日から天六診療所で原告の治療に当たった梅田玄勝医師、昭和四二年六月から一〇月にかけて原告の治療に当たった神谷病院の住田幸治医師、鬼子母神病院の中村美治医師、鉄砲州診療所の木下繁太朗医師は、いずれも業務に起因する頸肩腕症候群について専門的に研究を行い、あるいは実際に治療を行った経験のある医師であるが、各医師とも原告の疾病については、業務に起因して生じた頸肩腕症候群と診断していること、また、原告がした労働者災害補償保険法に基づく療養給付の申請についての審理の資料とするため、原告は昭和四五年六月三〇日ころ東京大学医学部附属病院物療内科で受診しているが、同内科医師吉田利男も原告の疾病について同様の診断を下していること

(2) 具体的にみると、まず梅田玄勝医師は、所見として原告には全体的な体の左側の知覚痲痺、筋力の低下、知覚障害が生じやすい状態があるほか、コーネル・メディカル・インデックス(阿部法)による検査で自律神経失調性愁訴数が二三あったとし、原告の病像はキーパンチャー等の事務機械作業者にみられる障害に類似していること、リウマチとの鑑別結果は陰性であり、外傷の既往歴もないこと及び原告の職務内容等からみて原告の疾病は業務に起因して生じた頸肩腕症候群であり、その症状は反射性交感神経失調症を伴う重症のもので療養を要するものと診断していること、

(3) 中村美治医師は、初診時の所見で背筋力の低下、上半身全体の筋硬化、圧痛の増強、全身にわたる右側の知覚過敏及び左側の知覚低下の疑い等があったこと及びその後の症状の経過からみて、原告の健康障害は初診時において、そしておそらくは第一回目の欠勤直前の昭和四一年五、六月の時期から左半身反射性交感神経症を主とするものであったと判断し、また、昭和四四年三月末の診察では定型的な反射性交感神経症がみられ、昭和四五年二月下旬の診察では右症状は未だ本格的軽快に向っていないと診断し、そのうえでこの反射性交感神経症を主要な症状とする頸肩腕症候群はキーパンチャー等の機械事務作業者にのみにみられる職業病であって、原告の負担した業務量と疲労の進展は右症状形成のために十二分であり、原告の疾病は業務に起因する頸肩腕症候群であると判断していること、

(4) 吉田利男医師は、「原告については症候性頸腕症候群、頸椎、骨関節疾患は否定できる。頸、肩、背、腕部の疼痛などの訴えは、筋障害、知覚障害、循環障害等で客観的に裏づけることができる。全体の病像は事務作業者の業務上障害を考えさせる。」とし、原告の疾病が業務に起因する頸肩腕症候群であるとし、神経、循環障害を伴うため、かなり長期の休業、加療を要すると診断していること、

(5) また、梅田玄勝、住田幸治、中村美治、木下繁太朗の各医師は原告が復職した当時同人を診察しているが、いずれも当時原告の症状は軽快に向っていたが、未だ治癒には至っておらず、なお治療を続ける必要があると判断していたこと、

(6) 復職後原告が第一回目の欠勤に入ったころと同様の症状に陥っていったことについて、梅田玄勝医師は過重ではないが手指を使う作業に従事したこと、職場の冷房の影響等により症状が悪化したものと判断していること、中村美治医師も昭和四三年冷房時に働いていて一段と病勢が進行したものと考えられるとしていること、

以上の事実が認められる。

(三)  ところで、被告は原告の家族の病歴からみて原告の疾病は原告の家系的な体質から発生する業務と関係のない他の疾患である可能性が強いと主張する。しかして、《証拠省略》によると、原告には父母の外三人の妹がいるが、その父は、膝関節痛、関節ロイマチス、胸部神経痛、肝炎、慢性胃炎等に、母は胃炎、腰痛症等に、妹妙子は膝関節炎、頸腕症候群、腰痛症、慢性胃炎、十二指腸潰瘍等に、妹悦子は急性肝炎に罹患したことがあり、原告自身も本件で問題になっている頸肩腕症候群の外に膝関節炎、腰痛症、胃炎、十二指腸潰瘍、慢性肝炎に罹患したことがあることが認められる。以上のように原告を含めたその家族には、筋骨格系及び結合組織の疾患や主として消化器系の内臓疾患に罹患している者が多く、このことと同じキーパンチ業務に従事しても頸肩腕症候群に罹患する者もいれば、罹患しない者もいるという事実を考え合わせると、原告の本件疾病には原告の家系的体質が一原因をなしていることは否定できないように思われる。しかし、そのことから原告の疾病が業務と関係なく右体質に根ざした他の疾患であると断定することはできない。なお、《証拠省略》によると原告がした前記療養給付申請についての審理のため労働基準監督署長から意見を求められた九州労災病院赤津隆医師は原告の症状を頸肩腕症候群であるとしながら、その発症については結合織炎の素因を無視できないとしていることが認められるが、《当事者》によると同医師は原告を直接診察して意見を述べているわけではなく、したがって、結合織炎が原告の症状の主因であるとは述べていないし、それが業務上のものであることの可能性も否定していないことが認められる。そうだとすると、右赤津医師の意見をもって原告の症状が主として結合織炎によるものと認めることはできないし、他に原告の症状が原告の体質に関連した別の原因疾患のあることを認めるに足る証拠はない。したがって、被告の前記主張は採用できない。

(四)  次に、被告は原告の症状は当初から心因性のものであるとの疑いがあると主張する。しかして、前記3認定の各医師の診断では原告に器質的障害は認められていないし、《証拠省略》によると、原告は第一回目の欠勤直後と復職時に八幡製鉄所病院で受診しているが、器質的障害は発見されていないことが認められる。そして、《証拠省略》によると、頸肩腕症候群の発生については作業内容等の物理的要因の外に作業者の精神的要因、これをとりまく社会的要因が否定できないと一般に考えられていること、八幡製鉄病院で保健衛生管理の仕事を担当してきた酒井淳医師は、昭和三六年から昭和四一年まで同病院で受診した八幡製鉄所勤務のキーパンチャーの有愁訴者について調査を行い、その結果として有愁訴者の症状の発生原因としては(1)穿孔作業が主因であると考えられるもの、(2)生活歴及び職場や家庭の人間関係が主因と考えられるもの、(3)心因性のもの、(4)他の病気によるものに分類できるが、調査対象者のうち(1)の類型に属するものは極めて少数しかおらず、(2)及び(3)の類型に属する広い意味での心因性のものがほとんどであったなどの結論に達していること、被告会社は新日本製鉄株式会社と同系列の会社であり、その戸畑製造所のキーパンチャーの作業条件は八幡製鉄所と基本的に同じであることが認められる。

しかし、キーパンチャーの職業病としては当初手指等の局部に腱鞘炎や書痙様の症状を呈するもののみが考えられていたが、その後キーパンチャー等の単純機械事務作業者にはその業務に起因して器質的障害を伴わず手指の外肩、腕等広範囲に痛み、しびれ等の症状が発生する疾病が存することが一般的に認識されるようになったことは前認定のとおりである。したがって作業者に腱鞘炎等の症状その外の器質的障害が認められないからといって、直ちにその者の症状を心因性のものであると断定することはできない。また、《証拠省略》によると、右酒井医師の調査に基づく結論は、手指等の局部に腱鞘炎等の器質的障害を生じたもののみをキーパンチャー等の職業病として把握する現在では一般的にとられていない考え方を前提としていることが認められるから、右の結論もそのまま採用することはできない。

(五)  つぎに《証拠省略》によると、原告のした療養給付申請についての審理のため労働基準監督署長から意見を求められた労働衛生サービスセンター所長久保田重孝は、原告を診察したわけではないが、原告は昭和三八年八月ころ頸肩腕症候群に罹患しており、当時の原告の業務内容からみて右疾病と業務との関係は否定できないが、しかし、昭和四一年六月に欠勤の上加療をしてから症状軽快し、昭和四二年一二月復職する時点でほぼ恢復したと思うとし、更に復職後再び同じ症状が出ていることについて、復職後の原告の業務内容からみて積極的な業務との関係を想定することは不可能であって、むしろ結婚等による身辺の変化などもあって心因的作用が発症に影響を与えたと考えるのが妥当ではないかとの意見を述べていること、右判断の根拠になったのは、原告の復職までの欠勤の期間、復職後の原告の業務が、当初二ヶ月位は特別の仕事はなく、その後は一般事務であり、その作業内容は比較的軽度なもので、手指等を過度に使用するものはなく、作業量も一ヶ月二〇時間分程度で同じ係の一般事務の約四分の一にすぎず、それは一般的に作業者の心身に過度の負担を要求するものでなかったこと、原告が復職後の昭和四三年六月訴外下川敬司と結婚したこと、労働省労働基準局長昭和四四年一〇月二九日付通達(基発第七二三号)「キーパンチャー等手指作業にもとづく疾病の業務上外の認定基準」に示されている「自覚症状を訴え、医学的に他覚的所見が認められる段階で療養を行い、かつ職場転換等により当該業務を離れる等の措置をとった後、相当期間を経てもなお症状が消退せず、あるいは悪化するような場合には、他の疾病との鑑別が必要である。」との判断基準(昭和五〇年基発五九号の通達によると、右相当期間は三ヶ月程度ということに改正された。)などではないかと推測される。

しかしながら、《証拠省略》を総合すれば、木下医師が治療を担当した三三七名の頸肩腕症候群患者の治療期間は一般的に長期にわたる者が多く、一年以上二年未満が七二名、三年未満が三四名、四年未満が一七名、五年未満が四名、五年以上が七名いたこと、また前記3(二)の(2)において述べたような診察をした梅田医師は、コーネル・メディカル・インデックスの検査で原告の精神的愁訴数が正常な範囲にあること、原告の症状に一定の法則性があることからみて、原告の症状が心因的作用によるものであることは否定できるとしていることが認められ、このこと並びに前述のとおり復職前原告を治療した住田、中村、木下各医師は当時原告は治癒しておらず、なお治療継続の必要を認めていたこと、頸肩腕症候群は一進一退をくり返しながら快方に向うが、業務に起因して発生した右症状は軽快したように見えても、過度でなくても手指を使う作業に従事したり、冷房等の刺戟に会うとたちまち症状が再燃するおそれがあること等の事実に照らし、当裁判所としては前記久保田所長の判断を採用することはできないところである。

なお、証人梅田玄勝は、専門的医師の判断として経済的理由その外で重労働をせざるを得ないなどの特別の事情がない限り、結婚生活の中で業務に起因する頸肩腕症候群の病状が悪化することは考えにくいとの意見を述べているところ、《証拠省略》によれば、夫下川敬司は原告に本件疾病のあることを承知で原告と結婚し、原告の健康を配慮して家事の手伝いをし、新居も原告の実家近くに構えたので、その母から食事、その後片づけ、掃除等の手伝いをしてもらい、原告は夫や母の十分な配慮のもとに過重な負担もなく結婚生活を送っていたことが認められるから、右梅田玄勝医師の意見に照らし、原告の結婚生活が症状の再燃をもたらしたものとも認め難い。

4  結局、原告の作業内容、作業環境、症状の内容及びその推移と作業内容との相関関係が前示のとおりであること、原告の疾病についての右各医師の診断結果が右認定のとおりであることを考え合わせ、更に前認定のとおり業務に起因して生じた頸肩腕症候群は一進一退の経過をたどりながら回復していくのが通例であり、軽快したと判断されても、手指を使う作業に従事したり、冷房等の刺戟に合うとたちまち症状が再燃する例が多いことを考慮すると、原告は被告会社戸畑製造所においてキーパンチ業務に従事したことにより昭和三八年八月ころに業務に起因して生じる頸肩腕症候群に罹患し、症状は次第に悪化していって昭和四一年六月に第一回目の欠勤に入ったこと、その後の加療により症状は軽快に向かっていたが、前認定のように休職期間満了により退職となることを避けるため治癒するに至らないまま復職し、そのため、復職後はキーパンチ業務から離れたが、やはり手指を使う作業に従事し、冷房等の影響もあって症状が再燃し、第一回目の欠勤当時と同様の症状となって再び欠勤するに至ったものと認めるのが相当である。

三  被告は、就業規則に定める被告会社の業務上疾病の認定手続を履行しなかった原告が、自己の疾病が業務上のものであることを主張することは信義に反し許されないと主張する。

《証拠省略》によると被告会社の社員就業規則においては、「社員が就業中に負傷し、または発病したときは、本人または同僚は、上長に申し出てその指示を受けなければならない。」(三五条)「業務上負傷し、または疾病にかかり、会社の診療機関または会社の指定する医師の診断によって休業したとき」は欠勤等として取扱わない(二五条)等の規定が存することが認められ、これによると被告会社では業務上の疾病について従業員に右のような手続を履行させ、そうすることによって従業員に生じた業務上の傷病を把握し、必要な措置を講じるようにしていることが認められる。しかるに、《証拠省略》によると、原告は第一回目の欠勤に入った昭和四一年六月七日までその直前の五月下旬に自己の症状を訴えて残業を免除してほしい旨の申入れをするまではその健康障害について上司である永田親孝係長に何ら申し出ていないこと、欠勤後に被告会社は右永田係長を通じて業務上疾病の疑いがあれば、八幡製鉄所病院か九州大学附属病院等の専門医の診察を受けるよう再三にわたり勧めたところ、原告は漸く八幡製鉄所病院で受診したが、途中で診察を拒否しており、九大附属病院等での受診もしておらず、自己の選択した医師に治療を受けていること、復職時に会社側が行った復職診断において原告は自己の症状について正確に申告せず、控え目に申述していること、復職後も原告は自己の症状の悪化についてその上司である進治実係長に何ら申出を行わず、定期健康診断においても異常を訴えることなく第二回目の欠勤に入ったこと、欠勤後原告は被告会社に何らの相談もなく労働基準監督署に療養補償給付申請をしていることが認められ、これに反する証拠はない。そして、原告が病欠に至る直前までその症状を上司に申出ず、また、復職後も症状の悪化について上司に申し出ていないのは、就業中の傷病について上司への申出義務を定めている就業規則の規定に違反しているといえる。

しかし、被告の主張する欠勤の特例を認めた就業規則の規定は、同規定による特例の扱いを受けるための要件を定めているにすぎず、会社所属の医師又は会社指定の医師の診察を受けたり、療養を受けたりすることを従業員に義務づけているとは到底解することができず、原告が会社の指示する病院での受診を拒み、他の医師につき療養を行ったからといって右就業規則の規定に反しているということはできないし、療養補償や休業補償に関する右労働協約の規定も、組合員が右各補償を受けるための要件を定めているにすぎず、これに一定の義務を課すものではない。また、《証拠省略》によると、原告が自己の症状について速やかに上司に申出なかったのは、就業規則の規定をよく知らなかったこともあるが、昭和四一年五月に職業病であるとの診断を受けるまでは自己の症状の原因が必ずしも明らかでなく、キーパンチャーの仕事が忙しくなるばかりのときで職場で痛みを訴えると同じ係の男子従業員から痛いと思うから痛くなるのだと言われたり、また、担当の部長から仕事をして体が痛いのは日頃の行いが悪いからだという趣旨のことを言われたりするなど当時の職場では上司に症状を申出る雰囲気ではなかったためであること、その後職業病であるとの診断を受けたときにはその旨を上司に申し出、また、自己の所属する組合を通じ会社にも申出ていること、復職後は復職したばかりで頑張らねばいけないという意識があり、再び長期療養に入ると今度は解雇されるおそれがあると心配し、上司にその症状を申出ていないこと、しかし、勤務時間中に通院させてほしい旨申し出ているし、また他の従業員より休暇を多くとって勤務を続けていること、第一回目の病欠に入ってから上司の再三の勧めがあったため八幡製鉄病院で受診したが、先に同病院の渡辺良之医師に診察してもらったとき、異常がないといわれ治療はしてもらえなかったうえ、「男の人に手を握ってもらえば治る。」など、原告からみると冗談としか思えないことを言われたので同医師に不信の念を抱いていたこと、そしてその時も同医師及び酒井淳医師の診察を受けたが、問診、整形外科的検査の結果は異常なしということであり、また、翌日は内科的検査等を行うということであったが、内科的検査は他の病院で既に行ってもらったから必要がないし、もはや業務上のものと診断してもらえる期待も治療をしてもらえる期待もないと考えてそれ以後は同病院で受診していないこと、その外の九大附属病院についても同僚が同様の症状につきそこで診察してもらったが業務上の疾病であるとの診断は受けられなかったと聞いているし、治療のためでなく検査のみの目的で受診しても仕方がないと考えて受診しなかったことが認められる。右認定の事実によると、原告がその上司にその症状を申し出なかったことには、やむを得ない事情があったといえるし、被告会社としてもその後原告の疾病についてある程度知ることとなったし、復職後も原告の症状についてある程度のことは知り得たといえる。また、原告が被告の指示する病院での受診を中途で拒否したり、全く拒否したことについてもその当時の原告の立場からみてやむを得なかったと認められる。

したがって、就業中の発病について上司への申出義務を定めている就業規則の規定に違反し、また、原告が被告の指定する病院で受診することを拒否し、自己の選択した医師の治療しか受けていないという事実があったからといって、原告が被告に対し自己の疾病が業務上のものと主張することが信義に反するものということはできない。

四  そうすると、被告会社が就業規則五〇条一項一号の規定により第二回目の欠勤の日から六ヶ月経過した日に原告に対し休職を命じ、それから一年経過した昭和四五年五月一日同規則五〇条二項に定める休職期間が満了したとし、同条四項の規定により同日以降原告を退職したものとして取扱っているのは、就業規則の適用を誤っており、原告は右各規定により退職となるいわれはない。したがって、原告は依然として被告に対し雇用契約上の地位を有するというべきである。

五  《証拠省略》によると被告会社と組合との間で締結された労働協約には「組合員が業務上負傷し、または疾病にかかったときは、会社の費用で会社所属の医師または会社の指定する医師につき療養させる。ただし、会社が必要と認めたときは、他の医師につき療養させ、または必要な療養の費用を負担する。」(有効期間が四五年四月一日から同年九月三〇日までのものでは七二条)、「組合員が前条の規定による療養のため、業務に服することができないため賃金を受けないときは、その療養中給付日額相当額の休業補償給付を支給する。」(同じく七三条)旨の規定がある。そして、原告が組合員であることは前記三認定のとおりである。

ところで、昭和四三年一一月二日から病気療養のため業務に服することができず欠勤していること、当該疾病が業務に起因するものであることは前認定のとおりであるが、原告が会社所属の医師又は会社の指定する医師につき、あるいは会社が必要と認めた他の医師につき療養を行っているとの証拠はなく、かえって原告が会社所属の医師又は会社の指定する医師の受診を拒否して、自らの選択した医師により療養を行っていることは前記三認定のとおりである。したがって、休業補償に関する労働協約の規定は原告には適用がないというべきである。

しかし、《証拠省略》によると、原告は昭和四一年五月職業病であるとの診断を受けた後組合を通じ原告の疾病を業務上のものとして取扱ってほしい旨申入れたが、被告会社からの回答は会社としてはキーパンチャーにそれほど過大な負担を与えていない等の理由から業務上のものとして取扱うわけにはいかないというものであったことが認められるし、また、第一回目の病欠後八幡製鉄所病院で受診したが、その時も第一回目の問診及び整形外科の検査で異常がないとされ、原告としてはそこではもはや業務上と認定してもらうことも、治療してもらうこともできないと考えたことは前認定のとおりである。これらの事実及び本訴に至るまで被告会社が原告の疾病の業務起因性を争っていることを考えると、原告が被告会社からその疾病を業務上のものと認めてもらい、被告会社所属の医師等につき療養を受けることを期待することはできなかったものと認められる。そして、このような特別の事情がある場合については、業務上の疾病により療養しているという事実があれば、会社所属の医師等につき療養をしていなくても、休業補償に関する前記労働協約の規定を類推適用すべきである。

原告が欠勤をはじめた当時の給付基礎日額が一、〇〇〇円であることについては被告は明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。したがって、原告は右協約の規定により欠勤をすることとなった昭和四三年一一月二日以降一日につき一、〇〇〇円の割合による休業補償を受領することができるというべきところ、昭和四三年一一月二日以降本件訴訟の弁論が終結した昭和五三年一一月二〇日までの受領すべき合計額は三六六万九、〇〇〇円となる。なお、原告が昭和四三年一一月二日以降昭和四五年五月二日までの間に被告から合計三二万七、〇〇〇円を受領していることは原告の自認するところであるから、これを控除すると右受領すべき額は三三四万二、〇〇〇円となる。

六  以上によると原告の本訴請求はすべて理由があるから認容し、訴訟費用につき民事訴訟法八九条、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 諸江田鶴雄 裁判官 宮城京一 青柳馨)

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